「群盲、象を撫でる」という言葉があります。
盲目の修行僧5名が、初めて「象」に触れる…という設定なのですが、
一人は鼻に触れ、「象とは、何かヌメヌメした細長い動物」
一人は足に触れ、「象とは、巨木のように太い動物」
一人は牙に触れ、「象とは、太く先端が鋭利な動物」
一人はお腹に触れ、「象とは、プニョプニョした感触の動物」
一人は耳に触れ、「象とは、羽のような、よく動く動物」
「群盲、象を撫でる」は、断片的な情報だけで物事の全てを理解したと間違った考えを持つことの例えとしてよく使われることわざですが、それぞれ自分の触れた部位からの解釈でそれぞれ独自の「象」というイメージを形成しています。
そのどれもが間違いではなく、それぞれの修行僧の方が触れたそのままの素直なイメージです。
しかし、「象」という動物の実際の姿を知っている私たちからすると、それは「象の一部」であることがわかります。
現実とは、こういうものです。
自分が「こうだ!」と思ったソレが、あなたの現実として認識され、創られていきます。
注意が向いたもの、興味や関心が注がれたもの…そうしたものが記憶に残りやすく、そうでない出来事、興味や関心のないものは、スッと抜けていきます。
そういう意味で記憶は、あなたの興味や関心、必要性などを記録する保管庫のようなものです。
心の注意集中。
あなたが、自分の心というエネルギーを注いでいるものは、何でしょうか?
それが、
たとえば、子供の将来への不安や心配なら、その不安や心配に照準を合わせた出来事ばかりに気がいきます。
たとえば、「あの時こうしておけば…」という思いばかりなら、その後悔や自責の念が反映した出来事ばかりに気がいくでしょう。
たとえば、「できない」ことに意識を向けてばかりなら、その「できない」現実を実感する出来事ばかりに気がいくことになります。
人間の巻き起こす問題、悩みのほとんどは、こうやって醸造されていきます。
その心の注意集中。
そこから、その不安や心配、後悔、できないという思い…などから、外してみませんか?
もしそれがなかったら…と、少し想像してみてください。
現実は、あなたの「こうだ!」に従って創られています。
その「こうだ!」の中身が変容すると…さて、どうなるのでしょうか?