日本の手技療術というのは、そもそも優秀だったと伝えられます。
『大宝律令』(701年制定)を修正・制定された『養老令』(718年制定)に、官職として針博士・針師、あん摩博士・あん摩師…などの官職があったくらいですから、それより以前からやられていたワケでしょう。
ドイツの医学者・博物学者であったシーボルトによりドイツで紹介され、さらにはドイツの産婦人科技術に取り入れられたといいます。
しかし、このような優秀な技術であった日本式按摩も徳川幕府の盲人救済政策に利用され、以降著しくその技術は低下、明治政府による医師法の制定がその技術低下にさらに拍車をかけ、慰安としての按摩技術がかろうじて遺るに至った…と(少なくとも表向きには)考えられています。
この明治政府による医師法の制定、そして大戦後の医療制度改革。
これらにより、日本の各地に伝承的に伝わっていた漢方などの頓服薬の技術も含む民間療法はみるみる衰退。
非科学的、理論で説明のつかない治癒現象の否定、あちこちの利権…何より、権威的な見解に弱い民族性もあり、人々の「常識」が西洋科学、文化への迎合へと塗り替えられてしまったことが大きいように、個人的には思われます。
戦闘、心理的な駆け引き、それらをビジネス的視点で眺めることに慣れた人間たちと、封建的に上に従うことをよしとし自ら考える必要もなく過ごしてきた人間たち。
メディア(当時でいえば新聞)、ラジオなどもうまく活用したんだろうな…。
そういうなかで、
手技療法の技術というのは、西洋の理論、技術を積極的にうまく取り入れながら、日本的な、独特の発展を遂げていきました。
「…しかして第二次大戦以後、今日においてもなお、我が国独特の優秀な技術と卓越した理論で手技医療の真価を発揮しているものに亀井氏の身体均整法、柴田和通氏の手足根本療法、野口晴哉氏の整体操法、奥山竜峰氏の皇法指圧治方学などがある」(『手技整形学』より)