人間には、幾つものトラップが、用意されています。
たとえば、認識などはその最たるものです。
見た、聞いた、香りがした、美味しかった、皮膚に何かが触れるその感触…
これら五感は、間違いようのない生体情報のような気がしていませんか?
あるいは、記憶。
誰もが何かを思い出すその時は、自身の「記憶」を探ります。
そして、そのなかで「これだ!」というものを突き止め、意識の表舞台にひっぱり出す。
その、自身が覚えている「記憶」に疑いがない…そう言い切れる方というのは、どのくらいおられるのだろう…そんなことを時折思います。
認識も記憶も、多くの場合ごく自然に編集が入ります。
「…え。どこから?」…はい、その答えはあなた自身からです。
「…え?私はそんなことしていない。そのまま覚えているし…」
多くの方はこのように考えるでしょう。
かなり詳細に、小さなことでも覚えてるし…そんな感じで捉えるのかもしれません。
では、
たとえば、昨日のお昼ご飯、といわれれば、けっこう詳細に覚えているかもしれません。
でも、たとえば、1週間前のお昼、といわれたらどうでしょう?
たとえば、その時の付け合わせのキャベツの色や太さ細さ、端にあったスパゲティの量やその香り…などなど、けっこうアヤしいのでは…?
認識も記憶も、その真実性や事実を事実のまま記録しているかどうかというのは、実際はかなりアヤしいのです。
人間という生命、生物は、「ありのまま」を「ありのまま」に記録したり思い出したりすることが出来難いようにセッティングされています。
要は、少し「ズレる」のが、デフォルトだということです。
さて、
『無敵のカラダ』というワークを、この3年ほど(九州で)やってきました。
このワークはいろいろな特徴はあるのですが、一つには、人間のそうした「ズレ」を、さまざまな形で体験、体感していくことがあげられます。
スポーツ、整体、武術…などの叡智を、コンパクトに初心者でも体現しやすいような形式にしてワークに取り入れています。
どちらが強い、〇〇だから弱い、という競争意識ではなく、自分自身がどうであるか、そして、その自分自身の枠組が外れて、内側の力が湧き出てきたらどうなるのか…という内面の可能性を探るような意識で、ワークは進みます。
できるできない、とか、あの人にはできて私にはできない…とか。
できる自分はすごくて、できない自分はダメで…とか。
そういう視点、そういう意識でワークをやっていると、そのうちつまらなくなるんですよね。
できなければ当然のようにつまらなくなりますが、実はできても、つまらなくなります。
これ自体、こうした意識自体が「ズレ」ているので…飽きてくるんですよね。
仮に「できる」という状態があったとして、
そこから自分はどう進んでいけるのか、
それは本当に「できて」いるのか、
そのまま同じようにできればいいのか、
こういう意識が育まれていないと、ただ「できる」だけになります。
対立し競争、優劣を決めないと気が済まない…そういう競技的精神、優劣つけて当たり前の環境にずっといたならばそれが普通になるのでしょう。
できたらおもしろく、できなかったらつまらない…そして、少しでもできたらもう「できた」と思う。
本当はまあ、できるもできないも関係なく、そう思ったらそこからが始まりで、そこからが奥行きで、そこからが幅が拡大してくるんだけど…
まあ、いいですけどね。
2025年は、都合により年に3回程度の(九州)開催となります。
あらかじめご了承ください。